話は戻り、
2017年3月28日に鎌倉を出発し、
28日間の徒歩道中を経て
2017年4月24日に出雲大社へと到着。
翌日4月25日に短編映画「ヒノイリの風」クランクイン。
夕方に到着してから数時間後にはヘアメイクが入り
睡眠はほぼとらず撮影に挑みました。
身体は極限状態の疲労感に達するものの
なぜか心は明快で、撮影本番に向けて意識が完全に集中していました。
撮影時の奇跡的な出来事等は、また改めて書かせていただくとして
とにかく、撮影現場そのものが映画でした。
無事、二日間の撮影を終え28日間をかけて歩んだ道中を
帰りは普通にロケバスに乗り、帰路は9時間。
徒歩だと、鎌倉〜出雲 片道28日間。
車だと、出雲〜鎌倉 片道9時間。
この移動時間軸の差には、身体感覚が根本からグラグラしました。
車は、まるでタイムマシン。
本当にそう思いました。
かつては車も電車もなかった時代。
徒歩 – 人間の足を利用した自力な行為
その行為が、現代の移動手段では最も不効率であること。
たしかに車や電車は移動所用時間の圧倒的な効率化を生み出しました。
ただ、28日間に味わったドラマと
高速に乗っている9時間のドラマ。
どちらがドラマティックだったかと言われれば、
どう考えても28日間のドラマだった。
効率化により得たものは計り知れない。
その恩恵を僕も現代人として日々いただいている。
僕だって普段は電車も使うし、車も使う。
ただ、謎に現代人として世捨て人レベルな行為として
30歳過ぎにもなる男が歩きだし実感した体感。
それは、現代における‘便利’や‘効率’などを追求したことにより

失った「何か」でした。

今日まで人間が追い求めてきたもの。
それは10人10色で、様々。
ただ現代の風潮として最近よく問われていること。
AI化による「人間の尊厳」
カフェでもロボットがコーヒーを持って来てくれる時代。
AI化により、人の職が奪われる時代。
まるで手塚治虫漫画のような時代が近づいてきている。
その時代の中、身体表現者として生きている自分。
つい最近
ストリートダンス雑誌を作成するとのこと、インタビューを受けた際に
インタビュアーに問われた問い。
『 「表現もAI化する。」という考えに対して、ダンサーとして何か一言。』
僕なりにだした答えは、
「ロボットダンスをロボットが踊っても、ヤバくはない。」
でした。
若者が言うヤバいという言葉の意味を深めると、
「驚き」ということではないかと思います。
ヤバい = 驚き
表現において、「驚き」はどのような時に生じるのか。
ロボットダンスにおける驚きを解剖していくと
有機質な人体が無機質な動きをすると、ビックリする。
すなわち、有機質と無機質という対極的要素が共存し表現されたとき
人は驚きを感じるのではないかと思います。
これは滑るはずのないカカトが滑っている「ムーンウォーク」の
視覚的な驚きと通じます。
あくまでロボットダンスは人間という有機的な生物が踊るからこそ、
「驚き」すなわち「ヤバい」のだと思います。
そして、
人間の尊厳というのは案外手元に存在していると感じます。
その一つに、「無条件」な行為が上げられると思います。
子供が、絵を描くのも踊るのも
その姿に「条件」は見当たりません。
もちろん、お母さんに喜んでもらいたいなど、
そのような想いの背景はあるのかもしれません。
ただ、僕らは
誰だって一度は子供だったから分かるように
「ただ、やりたいからやってる。」
という「無条件」な衝動を知っています。
藝術における本質は、「無条件」であると岡本太郎氏は言います。
無条件な心もち、すなわち初期衝動(わくわく)
この初期衝動(わくわく)にこそ
藝術すなわち文化の源流が流れているのではないでしょうか。
わくわくを感じる、この心こそ人間の尊厳ではないだろうか。
そして、その無条件なる初期衝動(わくわく)
にこそ、
人間こそがもつ「こころ」の素晴らしさがあるのではないだろうか。
そして、その「こころ」を体感する媒体として
この我が「身体」が存在するのではないか。
誰しもが必ず一人一つずつ持つ「からだ」
この「からだ」は、ヒトが生涯もちつづける所有物。
所有物というと語弊があるかもしれないけれど、
事実、生まれて死ぬまでの間に生涯付き合い続ける「からだ」
この「からだ」がもつ実感すなわち体感こそ
人間の尊厳に間違いないと思う。
スマホやパソコンなどは身体超えて頭脳の拡張媒体であると思います。
ネット社会における身体感覚の損失は、多大であることは間違いないと思われます。
ただ、そうであっても事実いまこうしてタイピングしている今も
我が指が存在して、我が指が動いて成している行為です。
いくらネット社会により身体感覚が失われようとも
「からだ」は存在し続けます。
僕は、そのコトを表現したい。
そのために身体表現 – 踊りを踊っているのかもしれないし、
人間の超基礎活動、身体表現の基礎
歩む
徒(いたずら)に歩むのかもしれません。
身体感覚を最も身近に即、再起させてくれるのは
人間活動として最も基礎的行動なる
「歩む」
ことなのではないだろうか。
そして、この「歩む」行為は
世界全人類共通身体活動ならび身体感覚。
誰しも必ず、歩み、生きる。
この最も基礎的行為であり最も身近に存在する誰しもがもつ共有身体感覚
にこそ、普遍的な身体表現が存在するのかも。
前回の鎌倉から出雲までの徒歩は、
先ず手前に自分自身が体感し体現することを求めた。
ただし今回の鎌倉から琵琶湖は前回の半分という距離も含め、
改め「歩むことを表現」する必要性を感じている。
人が歩むことは、人のもつ自由をも表現する。
その自由は、今ここ自分の足下に広がっている。

この一歩は、誰しもが自由に踏み出せる事実。

僕は、2018年4月8日(日)鎌倉市腰越 龍口明神社より
その一歩を踏み出し、歩むことをダンサーとして表現して舞りたいと思います。
「歩んで舞る。」
step by walk , to be dancing
って、、、中島宮司との話に戻れなかったというオチに!!汗
明日更新時には中島氏との話に戻れるだろうか。。。
くーー、、、恐れ入りますが、
引き続き、更新していくので、
どうぞ、きながにお付き合い頂きましたら幸いです。
一舞一生 – one step , one life –
小畑‘OBA’大左衛門